RE:寝間着は湯~とぴあ<南北戦争4>

時は進み 平成という言葉に慣れた頃
わが家族に マイホームプランが持ち上がった

やっと 普通の家に住めるんかとウキウキした気持ちと
14歳まで育った家を離れる寂しさでいっぱいだった

もはや 常識という言葉であてはまらない祖父が
しきりに寂しい顔をしていた

ある程度 大人の会話を理解できるようになった歳 になり
各々の人間関係を探るようにもなった
そういう事が僕の中で思春期に入ったのだと認識している。

そして中学2年生の時に
祖父母と離れて暮らすようになった。

初めて 新しい家で 自分の部屋で寝る時
ホームシックのような感情が芽生えた
自分の真新しい部屋なんていらない
あの狭い部屋に帰りたい 線香の匂いが染み付いてる
あの部屋に

そう思うと 泣けてきた。
心の隅のどこかで 祖父母と離れて暮らすのを受け入れられない自分がいたと思う。

家の前の団地で いつもキャッチボールの相手をしてくれた祖父
脚が元々悪かったのに

ほんまに親バカならぬ ただのじじバカである

そんな映像が脳裏に浮かんだ時
家を離れるときの祖父の言葉を思い出した。

「腹減ったら帰ってこいよなんでも作ったるからな」

僕は 自分の遺伝子のこの祖父のものが続いてるのかと 思うと
果たして残していいのか と
今でも思う

血は抗えない
これは永遠の命題である

引っ越しという事で南北戦争は終戦となったわけだ

およそ普通の家庭では考えにくい環境で育ったように思っていたが

別にもっと普通じゃない家庭環境はもちろんあり

それをおもしろおかしくこうやって記せるのも

祖父の強烈なキャラクターだからこそだと思う。

この2年後に祖母は亡くなった。

それまでは祖母の人柄、徳が成せるもので

この家に人が集まっていたことを知る。

我が物顔でご機嫌だったこの家の主は独りぼっちになってしまった。

すぐに知らんおばはん連れ込んでいたが。

高校1年から21になるまで6年間、幾度となくこの家のお世話になった

祖父がそのおばはんに跨っている場面にも出くわした。あれはきつかった。

僕が彼女を連れていった時に「こないだ髪長かったのにえらい切ったやな」と

いらん事も言われた

友達と麻雀をしていたらすぐに様子を窺いに来て

仲間に入れてほしそうにしていた。

そんな無邪気な祖父だからか友人にはよくネタにされたし

気にかけてもらった気がする。

もっとここでは書くに値しないお下劣な話もあるんだが

そんなこんなも全部含めて、祖父母が好きだった。

亡くなる前に最後に会ったのは僕だった。

今でも覚えてる最後に交わした言葉は

めちゃくちゃ苦しいはずなのにタバコだけは最後まで吸っていた

そのタバコを吸いながら

「看護婦がブサイクや、べっぴんおらんのかい」

バクチ、煙草、女

あんたの孫や、俺は
<南北戦争>Fin

RE:寝間着は湯~とぴあ<南北戦争3>

<南北戦争>3

南北戦争という表現したのは 父母VS祖父母だけではない
やはり 兄弟喧嘩は付き物だ

男2人 しかも年こそ2つ離れているが 学年で言えば年子である
そりゃ中学に入るまで殴る蹴るの応酬リキである
リキラリアットはさすがに出なかったが

他愛もない理由で喧嘩するものだ

まず大好物の唐揚げの取り合い
唐揚げは立派な喧嘩材料だ

一つでもどちらかが多いのを発見すれば パンチの応酬である

しかし 自分としては心に引っ掛かる物もあった

弟はよく父に 自分の部屋の整理整頓の事で殴られていた。
そう昭和の相撲部屋のように。

その時 弟は決まってこう言う
「兄ちゃんはセコいセコい」と 大きな声で泣きわめく

そう 私は不思議と怒られなかった
整理整頓ができていたから

私も整理整頓のせの字も出ないぐらい汚かった

しかし 家の構造上 祖母の部屋の横が私の部屋だった為

決まって 部屋の整理整頓を祖母がしてくれていた
その事実を知っている弟は「セコいセコい」と言うのである

しかし慣習と言うのは恐いもので

齢 28になる私は未だ整理整頓というものに無縁である

(35歳になりある程度できるようにはなったが服はたためない)

その反面 中学に入れば弟は几帳面極まりなく
整理整頓を自然に愛してしまう程になる

優しさの意味の深さを身をもって知るには
いやはや遅すぎたのかも知れない

慣習
人生は慣習でどうにかなるのかもしれない

あのイチローも毎日のたゆまぬ努力も慣習にしてしまう事により
あの記録を産んだのかなと思える

そりゃセンスはなりより必要なのだが

努力を慣習にするセンスもいるけども
こんな遠回しに自分の不甲斐ない甘さを露呈しているだけなのだが

そんな二人には不思議とルールがあった
祖父母(だいたい兼佐だが)は僕に何かを買い与える事によって
父母は弟には何かと買い与えていた。
祖父がどこかに僕を連れていく代わりに
父母は弟をどこかに連れて行く。
だからして、幼少の写真がやたらと弟の方が多いのだ。
こんなとこにも差がでる
今となってはどこか寂しさがあるものだ。
だからなのか僕には反抗期というものがなかった。
怖すぎて反抗できなかったというのもあるが
祖父に対しても
唯一の味方が僕だったのだ。
だからこそ
この南北戦争なる生活が終わりを迎えても
僕は祖父と祖母には甘えた。
その時間は短くても
かけがえのないものだったと思う。
今年こそは墓参りに行かないと
思いながら

RE:寝間着は湯~とぴあ<南北戦争2>

<南北戦争>2

小学生になれば自然と違和感を覚えるもので
そして寝小便も次第に治まるもので

段々と両親と弟と寝る機会も増えていったのですが それでもごく普通の家庭環境で考えてみれば 祖父母と寝る比率は高いままであった

そんな時 衝撃的な経験をした

祖父母に挟まれて寝るのですが
大たい 祖父は夜中3時頃までテレビや録画した映画を見ていた
大好物は高倉健と菅原文太である

トラック野郎が10本ぐらいある
寅さんもズラリと揃えている

だから 寝ている時にその音声で起きる場合がある
「おどれナメとったらぶち殺すぞ」
菅原文太である
このような怒声 幼少の私には刺激がありすぎて中耳炎というのはこんな感じではないのかと勘違いしていた。

そのような事がありつつ私はある事に気づいたのです

寝ていて夢を見る
夢の中で起きている事の発端は 周りで実際に起きてる音声に影響されるという事

だからである
必ず菅原文太の声が聞こえてる時 私はヤクザに追いかけられる夢を見た。
そんなある日
夢の中で きれいな女性が裸である
この時のイメージはかたせ梨乃である
極妻の影響である
このイメージが僕の年上への性に対す憧れが強くなったの有力な説だと思う

そのかたせ梨乃が私を抱きしめ 「あ~あ~ん」と喘ぐ
私でさえも そりゃ幼少期これが精一杯のイメージなのだエロス

そしてもはや フリ強過ぎてバレテいるだろうが

その喘ぐ声に導かれ
目を開けると

「なんやこら 」と言わんばかりの鋭い眼光で
祖父がこちらを睨む
そして 光が反射する方へ目をやると
まさかのAV鑑賞
孫と嫁の隣でAV鑑賞

ノーオナニーの ほんまの意味のAV鑑賞

題名 「愛なきSEX」

その意味を知るのはもっとずっと先の話

そんな事もあり 僕は段々脱北していくのである

RE:寝間着は湯~とぴあ <南北戦争>

第一章 <南北戦争>

私の家は二階建ての長屋が何軒も連なるうちの二つを使い
一つが祖父と祖母がいて
もう一つを父と母と私と弟が住む形で

現在でいう所の二世帯住宅であるのだが
長屋である からして自由に行ききできない
だが 私達は自由に行き来する

なぜならば 区切りの壁をブチ破ったからである

むろん 借家である
大家の許可など一切なしである。
誠にもって奇天烈である

そして私が住んでた長屋には通常 風呂がない
近隣の方は銭湯通いだ。
しかし 私は風呂に困った事がない

そう 風呂も勝手に作ってたのである
もちろんこの件も無許可である。

そんな全ての横暴を行っていたのが
祖父 兼佐です
兼佐で「かねすけ」と読む
誰も読めないのである

名前からして奇天烈である。

そんな祖父の寵愛を受け僕は育った

この祖父に育てられる
その意味は後々

しかし育てられると言うのはいささか大層と思われるかもしれない

が それが大層ではない
幼少期 僕は祖父と祖母の間に挟まり寝ていた。

盆や正月ではないのだ
毎日である
記憶として 父母と一緒に寝るより明らかに祖父母と寝ていた方が多いのだ

そして朝から 祖父の自転車の後ろに乗り喫茶店へ
これが僕の喫茶店中毒の始まりだと自覚している

そして そのままパチンコ店へ
「こうやってこのまま止めて打つねん」と兼佐
4歳の孫に止め打ちを教養させる恐るべきオールディー
店員「お客様困りますわお子さんにこんな事させてもらっては」

「もらっ」はぐらいで食い気味に「じゃかしい座らせとるだけや」と兼佐

いや 打ってるし 玉が飛んでるし

弥刀駅前のパチンコ店である

そして夜は 90CCのバイクに乗せて 矢田に
スナックだ
幼稚園児でスナックに入り浸る私

今思えば 孫を餌に口説いたのかもしれない

僕の初めてのデュエットは5歳で 相手は19歳のカウンターガール
「ロンリーチャップリン」である
28歳の現在、彼女は42歳
いやはやしっくり来るではないか

やはり僕の感性はおかしな方向に この頃から向いていったのである。

こんな幼少期
やはり 親が黙っていない弟も自分との環境の差に
違和感を感じ始める

そう南北戦争の火蓋が切られようとしていた。

僕は何も悪くない
そう繰り返しながら生きていた

RE:寝間着は湯~とぴあ 自伝

~はじめに~

これは2010年からアメーバブログで書き始めた自伝シリーズです。

一つ一つこちらに移して行きたいと思います。

その時の決意表明のようなものであり、エピローグなのものであるからにして

タイトルにはREを付けさせていただきます

内容も少し書き加えることもありますのでご容赦ください。

以下原文

28歳という中途半端な分岐点を境に
何かを遺す作業をしたい 暇だから暇な時に
そんな漠然とした考えで始めようと思いました。
時間をいかに無駄遣いしてるかを思い返す為に

自分の道筋を指し示した大きな目標が終わった 今
たとえ 12月27日という 非常に中途半端且つ 全然特別感がない日に始めてもいいんじゃないかと

ただこれは思い立ったら即行動をモットーにみたいな青臭い精神論ではない
「寝間着は湯~とぴあ」
僕を語るに当たり避けざるを選ないのが祖父の話であります
それを踏まえ脳天気に生きてきたと自覚する上に
周りから 脳天気の意味履き違えとるなコイツ と思われ続けた
半生 を 反省 し
そして 感性 を 丹精 こめて完成させる作業
すなわち「俺は 大器晩成 だと 反芻 そして 形成 していく」自慰行為でございます。

不謹慎 不適切 不手際が多々あるかもしれませんがご容赦ください。

2010年12月27日 森川裕介